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君が絶望を感じている今日って日は,どこかの誰かが戦いたかった明日なんだってこと

久々にあゆネタです。浜崎あゆみの「Rock'n'roll Circus」にはまっております。

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明るさ一辺倒で、いい意味での「浜崎あゆみらしいネガティブな感情」を排除してしまった前作と異なり、「私はこう思う」という感情が爆発しているような、浜崎あゆみらしいアルバムです。

でもその感情は、ないものねだりをしていた初期の浜崎あゆみとは違って、ネガティブな感情の存在もすべてひっくるめて、「これからも歩いて行ける」という自信に満ちているような気がします。

 

ちょっとここから内容が変わるので、ですます調をやめてみる。個人的なことなのだけど、ちょうどこのアルバムの発売日に、大きな苦悩とぶつかった。

 

「足し算したらマイナス(それも大きなマイナス)のコントリビュートしかしていない人をどう扱うべきか?」

それは2年前と4年前にもある場所で、自分が先輩と争った問題だった。それがもとで先輩とは仲が悪くなり、いじめられたこともあった。それがまた,形を変えて自分を襲ってきた。

「マイナスのコントリビュートしかしていないのに、利益だけを享受していてはいけない。権利を主張するならば、義務も果たすべき。」

その自分の主張は、「悪い人でも見捨てちゃいけないんだよ」という良く分からない道徳論によって2年前と4年前はつぶされた。いや、別に道徳論に走ってもいいんだけど、じゃあちゃんと害をなしている人に「お前ちゃんとやれよ」って根気良く説得しろよと思った。俺はちゃんと話をして、それでも駄目だったから切り捨てようとした。でも、「見捨てちゃいけない」とか言いながら、彼らはそうした人を変えようとはしなかった。

「見捨てちゃいけない」とか言いながら努力している自分を見捨ててるのはお前らだろって思った。その口だけな理想論が許せなかった。

お互いに話は平行線で、若かった自分も感情的になったこともあって、それでどんどん距離は離れて行った。当時は無我夢中でそんなことを考える余裕はなかったけれど、今になって思えば、いじめのようなこともあった。

 

俺は、何もないところが自分の力だけで、今の自分を勝ち取った。

時代がちょっとずつ変わって、今の子はどうだか知らないけど、俺が子どもの頃は「休み時間は外で遊びなさい」と先生に言われたものだった。男にとって、運動ができることが勝利のステータスだった。

「運動なんかできても、君らはスポーツ選手になれるほどじゃないし、将来全く役に立たないよ。俺のほうが頭いいから絶対生涯年収高いし。」そう平然と言い放って、運動論者を泣かす恐ろしい小学生だった。

だけど,別にそれが悪かったなんてまったく思ってない。子供って結構残酷で,同級生だって結構すごいことをしていたものだった。俺はやられたからやり返しただけだ。

同年代の人は小学生時代を思い出してほしいのだけど、運動のできないほとんどの人は、他人(運動のできる人)に媚びて生きていたものだった。俺はそうせずに、自分の持っている力(頭の良さ)で戦ってきた。

俺みたいに生まれて,俺みたいな人生を歩める人は少ない。誰かに理解されなくても,そのことを俺は心から誇りに思っている。

 

運動ができなくて、一番悔しかったのは、友達ができないことでも女の子にもてないことでもなくて、高校受験の時だった。

経済的な事情から、絶対に受かる公立高校しか受験できなかったのだが、俺が受験したのは、俺が行きたかった高校じゃなかった。体育の成績(5段階評価の1)が響いて、内申点が足りなかったのだ。

運動ができなくてあれほど悔しかったことはなかった。勉強で負けるならよかった。「運動ができても将来役に立たない」と言い切っていたのに、運動ができないせいで、将来が閉ざされたことがショックだった。自分よりも頭の悪い子が、自分よりもいい高校に行くことが許せなかった。

だから、高校では勉強を頑張った。だから、今の自分がある。

日本にも残念ながらヒエラルキーは存在していて、人生は平等じゃない。恵まれた環境で生まれてきた人が、高い階級を構成している。自分はそのヒエラルキーにおいて、ほかの人があきらめるところをあきらめずに、上へあがったのだと思う。

今、年をとって、小学校の同級生に会いたいと、心から性格の悪い自分は思う。

彼らも挫折を知った年代になったからこそ、当時自分が主張していたことは自分が正しかったとわかるはず。

 

「自分が苦労をしてきたから,他人も苦労しなきゃいけないと思ってる」と自分のことを言ったのは,大学の友達だけど,自分にはそういうところが強い。努力しない人にはとことん冷たい。

それが形を変えて、今いる場所でも出てきたことに驚いた。

だけど,あのころとは違って,冷静に対処できた。許すことはできなくても,上手な落とし所を探した。道徳論を唱える相手が,なんだかんだ口だけじゃないって,自分が認めていたことも大きかった(2年前と4年前の人は口だけだった)。今ならまだ,後戻りができて,お互い気持ちよく終われると思った。

2年前と4年前のことも,今でもちょっと胸が痛む。今回もきっと,引きずるのだろうと思う。だけど,引きずりながらも前を向いて歩いていける強さを自分が持っているって事を,今の自分は知っているから,だから大丈夫。

紆余曲折を経て,気づくべきタイミングで気づくべきことに気づけて,だから大丈夫。

 

もう迷ったりしない。後悔なんてない。「Microphone」

 

まっすぐに受け止めて行くわ あたしのこの左側で 「count down」

 

今だからこそ 笑い話にできることとか

今でもちょっと胸が痛くなることとか

数え切れない思い出たちが優しく教えてくれているから 「meaning of love」

 

思い出してみて 壁にぶち当たったら

君が絶望を感じている今日って日は

どこかの誰かが戦いたかった明日だってこと 「RED LINE ~for TA~」

 

そんなayuの唄が心にしみる。

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コメント

あー、もう少し早くこの記事ちゃんと読んどきゃよかった。
この記事には君の人間性、思想がはっきりと垣間見ることができる。
君の妥協を許さない生き方は本当にいい刺激になる。
そして概ね賛同できる。

しかし、健康には気をつけないとダメよb
運動も全て無駄かと言ったらそうでもないんだゼ?

運動=健康,と言う図式は間違った考えです。

スポーツで肩や膝を壊す人はいくらでもいますし,重篤なところではスキーで脊髄損傷になって四肢麻痺になる人もいます。
また,外傷以外では,女性のアスリートは過剰な運動によって生理が止まっている人も多いです。これは体重減少性無月経と言って,運動によるエネルギーの消費のため,細胞内飢餓を起こしていることが原因となっています。
さらに,糖尿病等の生活習慣病では,運動療法が有効と言われていますが,一方で,網膜症や腎症がある程度まで進んだ人には,運動療法は禁忌です(運動してはいけないと言うことです)。

つまりは,過ぎたるは及ばざるが如し,と言うことですよね。
運動=健康と考えるのではなく,健康であるために,ある限られた集団おいて,運動が有効であると考えるのが正しいわけです。
適度な運動を,適切に行うのはいいことですが,人は運動のポジティブな面を強調してもネガティブな面を認めたがりません。
ポジティブな面しか語られないことによって,「運動=正義」と言う価値観がまかり通る温床となっています。
運動についてネガティブな面もきちんと認識することが重要です。

君らしい返答だね。
期待通りで、変わってないと言う意味である意味嬉しさを覚えるよ^^
医者の卵に健康を説くなんざ、釈迦に説法だったな、失敬失敬。
確かに、俺も最近肩にガタきてるからなwそういう意味じゃスポーツが健康を害した例だわ。

けど、一応誤解ないよう追伸しとくね。
この歳まで野球を続けてきたのはぶっちゃけ無駄じゃないと思ってる。
普段理屈っぽいことばっかり言ってる俺だけど(なので会社では浮きぎみです・・・)こればっかりは理屈じゃねぇんだ。健康が、運動が云々じゃなくてサ。俺はプロではないけど「野球は人生そのもの」ってモノなのよ(最近惰性感が漂ってるけどww)
ま、それだけは何となく理解しといてほしい(。_、)
だから、主観的見地から「無駄と思うことからも学ぶことはあるかもよ?」
だから、「全てが無駄という訳じゃないよ」と言う意味だったんだ。ワリ


しかし・・・
君とはこういうやり取りだけじゃ物足りないわ。
今度そちらに行ったらよろしく頼むb

好きなこと(それが多くの男にとって運動であるわけだけど)を
仕事に出来る人は少ないけれど、
努力する苦しさや素晴らしさを学ぶ、という意味では、
運動が好きな人にとって、運動を頑張ることに意味はあると思います。

だけど、自分はその一人ではなく、自分が運動から得たものは、
マジョリティーの悪意に負けない、反骨精神だったということです。
自分に、努力することの苦しさや素晴らしさを教えてくれたのは、
勉強であり、友人であり、恩師であり、祖母でした。

TSUTAYAさんにとって、野球は意味のあるものかもしれないし、
それを僕は否定しようとは思いません。
でも、それを僕に押し付けないでください。
運動=健康の議論と一緒です。ある限られた集団において、
運動は人生にプラスの意味を持つのかもしれないけれど、
それは母集団すべてではない。

僕がどんなに運動が嫌いでも、TSUTAYAさんにとって、
野球が意味がある事を僕が認めなきゃいけないように、
TSUTAYAさんがどんなに野球が好きでも、atsushiにとって、
野球はウンコであることをTSUTAYAさんは認めなきゃいけない。

僕はこのように思っています。
それは、とにかく戦うことに夢中だった小学生時代には
僕の側も出来なかったことですが。
まぁ、文章にすると伝わらないことも多いので、
飲み屋で語り明かせたらいいですね。

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